賀茂川スケッチ

川がこんなに流れているのだということを、京都に住むようになり初めて知りました。私は長らく大阪に住んでいましたが、大きすぎる淀川の底を見ることもなく、なんとなくタプタプという濁ったイメージしかありませんでした。

エッセー「かも川にて」

犬の散歩で賀茂川沿いを歩くと、実に様々な人に出会います。
トランペットや三味線の練習をしている人、日光浴をしている人、読書する人、マラソンする人、絵を描く人、空手の合同練習する道場の人たち、そして老若男女のカップルも…。
それぞれの人が、何らかの目的があって賀茂川の岸辺に集ってきているようです。
人だけでなく、鴨や鷺、烏や鳩、椋鳥、雀も、集うというよりも生活しています。

近年、天候の変化が激しくなり、大量の雨の後は賀茂川の水量も遊歩道を埋め尽くすほど溢れることがあります。ところどころに見えていた川の中の小島も、茶色く濁った水の中に隠れてしまいます。強風で無残に折れてしまった松や桜の木の鋭く尖ってささくれた木肌は哀れです。
そんな光景を見ると、鴨の家族はどうしただろうかと私は心配します。親鳥の後をついて危なげに泳いでいた子鴨たちは、泥水に飲み込まれてしまわなかっただろうかと不安になります。大雨の後、ようやく晴れて散歩にでると、いつのまにか私の眼は賀茂川の水面を追っています。岸辺をチャプチャプ歩いている鴨の家族を見つけると、ああ、よかった、と本当に安心するのです。

『代表挨拶』にも書いたように、賀茂川には人以外の小さな命がたくさん集っています。その小さな命を育む場に密着した処に私自身が生活していること、鴨の家族は私のことは知らないでしょうが、それでも何かと気にしている自分を心の中に気づけることは、心理臨床家として大切なことではないかと思っています。
大雨の後の賀茂川は、黄土色の流れになって川底を見ることなどはできません。それでも2、3日もすると川の水は澄んで、底に根を張った緑色の藻や小石の姿を見ることができます。

川は、流れながら浄化しているのです。
よく不都合なことや許しがたいことを日本人は『水に流す』と言って、外国の人から見れば何でも穏便に済ませようとする、少し不甲斐ない国民性のように思われがちですが、賀茂川の近くに住み始めて、日々変化する川の流れを見て暮らすようになると、果たしてそうなのか?と思うようになりました。
複雑な思い、心の澱をなんとか沈めて、静かに流れていこうとしている、崇高な国民性ではないかと考えるようになりました。

私の大好きな随筆家、岡部伊都子さんのエッセイ集『賀茂川日記』のお題を勝手にもらって、『賀茂川にて』と冠して、日々の私の思いを記していきたいと思います。
お読みいただければ嬉しく思います。